今年は梅酒を作ってみようかと検討しています、四ヶ内(しがない)です。

久々に心の健康のお話。

あらゆるメンヘラが落ち着いてきて日が経ちますが、
日が経ったからこそ、「あああの時のあれは正直しんどかったなぁ」と
無意識の悲鳴を冷静に受け止められるようになりました。


私は正直、過ぎた『感動』は心の健康にはよくないと思っています。
それでいて、適切な感動は必要であるとも思っています。




目次
過ぎた感動が生むのは、いつもより重い「いつもの日常」
感動しすぎることこそ不健康のサインかも
じっくりコーヒーを味わうような、静かな感動が良薬







過ぎた感動が生むのは、いつもより重い「いつもの日常」


今が最高に幸せ。――その次の日、あなたは何を考えていますか?

次の日でなくても、
例えば1時間後、1週間後、1ヶ月後、


「ああ、明日からまた日常だ」


そんな心の低い声が、
感動で満ちていた心にじわっと滲み出してくることはありませんか。

多くの感動は特別で、非日常です。
毎日それが続くことはありません。
毎日それが続いていれば、きっと人にとってそれは感動ではなくなるでしょう。

人によって内容こそ様々だけれど、
感動というのは基本的には「日常の外」のこと。

1度感動した心は、
また「日常」に戻ってくることになります。


それは例えば、高低差のあるジェットコースターのようなもの。
感動によって高いところに持ち上げられた心は、
下る時はただ重力に任せるだけ。
一気に加速し、Gをかけて、地面へと肉薄します。

地面の高さ=日常そのものはそれほど変化していないはずなのに、
感動すればするほど、高いところから落ちた心は酷い落差を感じる。

強い感動は日常に戻る時、
躁鬱的なインパクトを感じさせるものでもあるのです。



感動しすぎることこそ不健康のサインかも


抑うつやうつ気味になっている方の場合、
感動しすぎてしまうことこそ心があげるSOSのサインかもしれません。


最高だった。
こんなに幸せだなんて信じられない。
明日からまた生きていける――。


心に暗いところ、何か深く空いたところのある人は、
1度感動すると信じられないほど容易く心が高ぶります。
とてつもない勢いで号泣してしまうことも。


それは遠目に見れば、良い感動の仕方ではありません。


酷く感動したあなたの心の何処かに、
息苦しい真空のようなものはありませんか?

止まらない涙と笑顔の裏に、
ねっとりと黒く暗いものがへばりついていませんか?

その感動から開放され、1人になった時、
部屋で呆然と力の抜けるあなたはいませんか?


感動した後のあなたの心が、
その日の朝よりも深いところに落ちてしまってはいませんか?







じっくりコーヒーを味わうような、静かな感動が良薬


正直健康な状態に近づくにつれて、
私は酷く感動することは減っていきました。

そして冷静な目で振り返ると、あれは感動というよりも、
必要以上に押し上げられた躁状態だったのだと思います。

抑うつやうつ気味など、心に疲れのある人にとって、
躁状態は正直しんどいものがあります。
筋肉痛の身体に、さらにトレーニングを課すようなものです。
躁状態から抜け出せば、どっと疲れて指一本動かせなくなります。


私が健康に近づいて手に入れたのは、
日常の隙間にある静かな感動です。

例えば掃除が終わって綺麗になった床を見た達成感だとか。
仕事が終わって職場から出たときの爽快感だとか。
休みの日に洗濯をして、
干した洗濯物が風に揺れてるのを眺めてる時だとか。

休日に窓辺で読む文庫本のような、
淹れたてのコーヒーを温度の変化まで感じながら時間をかけて飲むような、
そういうじっくりとした小さな感動を、
私の感覚は確かに拾えるようになりました。


感動は健康に必要だけれど、
過ぎれば何事も毒になります。

日々八分目の感動を味わいながら、
時々世界がひっくり返るような喜びを味わえたらな、と。
そういうバランスを心がけて最近は生活しています。