「なぜ私は生きているのだろう」

 こういう問いがふっと胸の中に浮くことは割と多い。
 大体が夏休みに電話で相談するような純粋な疑問ではなく、「意味、なくない?」というオチのつく非常にネガティブな問いである。

 どういう時に湧くかというと、個人的には無力感を感じた時が多い。
 たとえば優秀な人に囲まれた時。
 たとえばやるべきことが無い時。
 たとえば○○の会社員であるとか、××の妻であるとか、自分を表せる所属がない時。

 趣味、仕事、金、スキルのない場合に、こういう疑問が浮かぶことが多いなと思う。

 では結局のところ、なぜ私は生きているのだろうか?

 この問いに対する根本的な答えは、実はかのデール・カーネギー先生がとっくの昔に示していてくれたりする。


 



~目次~







人生は一度に1粒の砂


 デール・カーネギー先生は自己啓発の大家である。
 「道は開ける」とか、「人を動かす」とか、タイトルなら聞いたことがある人も多いのではないだろうか。
 「人を動かす」はともかく、「道は開ける」の方は学生時代に結構お世話になった。


 こちらは文庫版。
 一昔前の海外翻訳っぽく、言い回しが比較的柔らかくて好きだ。
 ビジネス書寄りではないので言葉にがめつさやきつさも無い。気持ち的に読みやすい。

 ということで、デール・カーネギー先生の著書「道は開ける」より、「なぜ私は生きているのか」という問いへの答えを引用してみると。

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 働け

 ……非常に誤解を招く言い回しをあえて選んだので、しっかりと説明させていただく。

 「道は開ける」曰く、不安とは、『それを考える思考の余裕があるから生まれる』のだという。
 たとえば「道は開ける」の中にも、息子を戦争へ送り出したお母様の心情が書かれている。

 息子が大怪我をしてしまったらどうしよう……。
 戦争で手足を失ってしまったら……。 
 それどころか命を落としてしまったら……。

 などと恐怖が尽きず、食事も喉を通らず、ろくに家事もできない状態であったらしい。
 子供を持つ親ならば当然の心情だ。

 で、そのお母様がその思いを克服するために何をしたかというと。
 労働し始めたのである。
 パート。それも接客の。
 めっちゃ忙しい。てんやわんやの毎日である。

 ……そして労働の果てに、このお母様元気はなんと元気になった
 はつらつと働き、家に帰ればばったりと眠る。
 それを繰り返し、悩む暇を積極的に消滅させたのである。

 んなアホな! と感じるかもしれない。
 しかしなんとなく共感できる感じもしないだろうか?

 とある出来事にひたすら悩んでいても、仕事やアルバイトに打ち込んでいる間は忘れていられる、というような経験。
 このお母様の場合、解決すべきは具体的な問題ではなく、『来るかもしれない不安』という彼女自身の内側の問題だった。
 だからこそ『働く』という形で、彼女の心の悩みは解決されたのである。
 だって不安を感じる暇がなくなったんだもの。

 「道は開ける」に出てくる言葉で私が好きなものに、『一度に一粒の砂』というフレーズがある。
 人は観覧車の映像を想像しながら、今晩の献立を組み立てることはできない。
 本来脳みそとはシングルタスクしかこなせない、一度に一つのことしか考えられないものなのだ。
 一度に一粒しか通り抜けられない砂時計のように。

 「なぜ私は生きているのか」の問いの答えもこれに当たる。
 そんなことを考えている暇があったら、頭を動かし、身体を動かすべきなのである。
 そしたら気も晴れるし、事態も進む。
 積極的に悩む暇を消滅させるべきなのだ。

 私がその手の自問自答を感じた場合、さっさとマインドマップを広げて、次の記事を書くべきなのである。
 自分の生に悩みながら、ブログの更新をすることはできないのだから。



自分の生を疑う時、こういう例外には注意


 が……こういうのは例外だ。
 こういう人はむしろ、一度働くのをやめる必要がある。

  • ①忙しすぎて、自分の時間がとれない人
  • ②相性の悪い人と働き、心が疲弊している人

 ①の忙しすぎて自分の時間がとれない人は、多くの場合自分を見失っている。
 自分の本体が自分の心ではなく、○○社の社員という所属になってしまうのだ。

 だからふと遠くから自分を眺めたとき、○○社の社員ではない"自分"が存在している理由が分からなくなる。
 自分が多量の時間をかけている仕事というタスクに疑問を抱き、それでも朝目が覚めたら職場に向かうしかない。
 といった苦しい悪循環が始まってしまう。

 朝職場に向かい、夜家に帰ってきて、食事をとって眠る、平日はこのサイクルしかできていない人はこれに当たることが多い。

 残業時間なんて関係ない。仕事は本来自分の時間ではないのだ。
 仕事をしている時、あなたがあなたを見いだせていなかったら、それはあなたの時間ではない
 もちろん仕事を自分を見いだす時間にできる人もいる。仕事によってこそ自分の価値を見いだせるひともいる。

 けど多くの人が摩耗する理由は、やはり仕事だ。
 残業が月100時間を超えていなくても、始業が9時以降のゆとり職場でも、見失う時は自分を見失う。
 だってそこにいるのは、あなたというよりは○○社の一社員なのだから。

 忙しすぎて自分の時間がとれない人は、一人になる時間が必要だ。
 たとえば家でゆっくり家事をしたり、趣味に打ち込んだり、本を読んだり、散歩したり。

 プライベートでも人と接しない、人と言葉を交わさない時間を意識的に作る。
 そうすることで、自分を取り戻しやすくなる。
 ○○社の社員である以外の自分を改めて感じられる。


 ②の相性の悪い人と働き、心が疲弊している人は、まずその環境に気づくことが必要だ。
 というのも人との相性が悪くて疲れている人は、そもそも相手との相性が悪いことに気づいていない可能性がある。

 上司とか、後輩とか、家族とか。
 意外と相性の悪い人は近くに潜んでいる。

 なぜそんな一見簡単なことに気づけないかというと、多くの場合、自分がその人のことを嫌いではないからだ。

 仲がいいのと、相性がいいのは全く違う。
 海の漁師と森の猟師は話が合うことはあっても、ともに働けるかとなるとさすがに無理がある。

 たとえばあなたが嫌いではない人で、けれど会話をすることがなんとなく億劫だ・話していると自分の意見を見失ってしまう、という相手がいる場合、その人との相性を再考してみてはどうだろうか。

 言葉とお金の使い方、アウトプットの質と量のバランス感、会話するときに効率と感情どちらを優先するのか。
 相手は相手自身にとって効率のいいやり方を、他者にも求めるか。
 相手はこちらの発言を最後まで聞かずに返答を挟んでこないか。

 どれかにあれ? と思ったら、あなたの心は疲れ、相手に合わせすぎてあなた自身を見失っているかもしれない。

 見目のいい靴はすべて足に合うとは限らない。
 靴擦れを我慢すればやがて血が出るし、それでも履き続ければ歩き方は歪み、最後は骨格にも影響してくる。
 誰かといることで、あなたの足は血まみれになっていないだろうか?
 あなたは本当に、足に合った履きやすい靴で、自分の好む道を歩いているだろうか。






まとめ:「なぜ生きているのか」分からなくなった時の対処


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 とまあ、好きなように話しているうちにとっちらかったので簡単にまとめると。

 「なぜ私は生きているのか」という問いかけが自分の中に生まれたら、まず見極めよう
 自分に余裕が余りすぎているのか、それとも無さすぎるのか
 この場合の余裕とは、時間の余裕ではなくの余裕だ。

 心の余裕が余りすぎていると感じたら、何か忙しいことを手がけてみよう。
 その場で始められることだったらクラウドソーシングで仕事を探してもいいし、身体を動かしたいと思ったらアルバイトに申し込んでみてもいい。
 今は一日だけの短期バイトだって溢れている。

 もし心の余裕が無さすぎると感じたら。
 なんとか余裕を捻り出してみよう。

 一人になる時間が上手いこととれたら、一人旅なんてのもおすすめだ。
 旅というのは運動欲・知識欲・雰囲気欲など、人が求めるいろんな欲に対応できる力がある。
 だまされたと思って簡単に旅をしてみると、意外と身体と心がスッキリする。

 もし一人になる時間がとれなかったら。
 もし一人にさせてくれない相手が側にいたら。

 一度でいいので有給をとって、前の日に目覚ましをかけずに眠って、外食でもコンビニ飯でも好きなものでお腹を満たし、一日中ソファに横になる勢いでだらっとしてみてほしい。

 そういう有給はとれない?
 理由なんて簡単にでっち上げてしまおう。そもそも有給は本来理由なんていらないものだし。
 それでも有給がとれない?
 その会社やばいよ。


 「生きていることに意味は無い。そこにあるのは、ただ価値だけだ」

 これは誰の出典でもない。

 あえていうなら学生時代の私が、いつからか必死で自分に言い聞かせていた言葉だ。
 なかなか捨てたもんじゃないやんけ、と我ながら当時の自分を評価したい。


 人生に自分で価値を後付けできているか?
 あなたの足は、合わない靴にくたびれきっていないだろうか。