「あんた、テスを出してくれんかね」
 なんとはなしに時計を見ていると、突然おばあさまがそう切り出した。




 うちのおばあさまは大変な読書家だ。
 というか、おじいさまもそうだった。うちのじいさまばあさまは両方とも大変な読書家で、晩年のじいさまはずっと五体不満足を読んでいた印象が強い。
 ばあさまは新聞を読んでいるイメージが強いのだが、じいさまに負けず劣らず本を読む人だったということが最近判明した。
 というのも、白内障が進んでよう字が読めなくなったおばあさまの最近一番の趣味は洋画なのだが、その感想に付随して原作の話がするする出てくるのだ。
「映画見ただけやと分からんけぇねぇ。原作を読んで、ああなるほどって思うんよ」
 おばあさまがフォークでおやつを食べながら言った。残念ながらその日はすでに冷蔵庫のアイスが空になっていたので、私はコーヒーゼリー飲料を持ち込んで行儀悪く啜っていた。
 おばあさまが両手を空中に浮かべ、だるまくらいの長方形を手で撫ぜるように描く。
「本当にあるんかねぇ、ああいうのは。テスっていうイギリス映画を見よってね、出てきたんよ」
 おばあさまとのお話では私は相槌の専門家なので、我ながら絶妙な塩梅の頷きを返しつつ続きを促す。高い眼鏡は汚すと拭くのが面倒だから、と、最近は裸眼の多いおばあさまが、少し遠くを見るように話す。
「地の果てにね、人の像がいくつも並んどって……あんた分かるかね、言って」
 残念ながら博識からは程遠いので、私は正直に首を横に振る。「なんやったかねぇ」とおばあさまが語る間、私はおばあさまの口から出た地の果てという言葉の綺麗さを堪能していた。
 日曜の夕方はやることが多い。風呂を掃除し、釜でご飯を炊く。そのために話しながらもちらちらと時計を見ていたおばあさまだが、ふと思い立ったようにゼリーを飲みきった私に言った。
「あんた、テスを出してくれんかね。青い本なんよ」
 ここは二つ返事しなければ孫の名が廃る。

 背中を丸めながらもハキハキ歩くおばあさまは、私を仏間兼客間に引き連れた。そこには、化粧台ほどの幅ながらも天井に届きかけている背の高い本棚がある。おじいさまの遺品をまとめた棚だ。
 物を丁寧に選ぶおじいさまらしく、本棚は上段下段とも扉がついている。おばあさまが示したのは、下段の右側、木扉の方だった。
「その中にあると思うんやけどねぇ」
 本棚の下段は、私も座らなければ作業しづらい低さである。たしかに背中の曲がったおばあさまでは、ここの本を出す気にはならないだろう。
 私はごく何気なく扉を開いて、くすんだターコイズブルーの背表紙群に驚いた。
 河出書房新社版、世界文学全集別巻。綺麗に日に焼けた外箱から取り出してみれば、中身は布貼り、背表紙と表紙に金の箔押しでタイトルが刻まれている。
 今見てもオシャレな装丁に感心したし、それが数十冊詰め込まれている。見る人が見ればなかなかのコレクションではなかろうか、これ。
「もう読まんけ、仕舞ってええと思ったんやけどねぇ」
 おばあさまの言葉を片耳に、完全に収納目的の詰め方をされている本を取り出していく。手前の一群を除いたところで……一番奥、しかもその一番下に、ほかに比べればずいぶんシンプルなそのタイトルを見つけた。位置が幸いしてか、ほとんど日焼けもない。
「あったよ!」
「あらま!」
 思わず喜べば、おばあさまも声を上げる。取り出して渡せば、おばあさまはいつになく喜んで笑った。私は取り出した本を仕舞いなおしながら、つられて笑顔になる。
「あったんやねぇ。ほんと、どこ行ったかと思いよったけど」
 おばあさまは言いながら両手で本を持ち、おもむろに――逆さにした。外箱からボトッと本が畳に落ちる。まったく気にせずおばあさまは本を拾(ひら)い、右手で支えて左手でべらべらと捲った。お目当てのものによほど満足してもらえたようだ。
「あんたも読みたかったら読んでええけぇねぇ」
 おばあさまがニコニコしながらお礼を言って、本を小脇にご飯を炊かねばとキッチンに去っていく。私は改めて狭い場所に詰め込まれた無数のターコイズを見つめた。
 レ・ミゼラブル、嵐が丘、車輪の下、風と共に去りぬ、エトセトラエトセトラ……どれもタイトルは聞いているけれど、ろくに手にとったこともない。
 少し悩んで、全三巻の風と共に去りぬを手にとった。とりあえずⅠだけ読んでみよう、という気になった。
 おばあさまの言う地の果ての正体が、あの本の中に記されているのだろうか。それを思うと、期待感に少しだけ気持ちがほこほこするのだ。


 自室に戻った今、風と共に去りぬの外箱から嵐が丘の中身を取り出した私は、おばあさまが畳の上で本をひっくり返した本当の意味を理解したのだった。